松任谷由実が、影響を受けた 60's プロコル・ハルム Procol Harum (\400 国内盤7inch) 青い影 A Whiter Shade Of Pale D-1012 1967年

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松任谷由実が、影響を受けた
60's プロコル・ハルム 
Procol Harum (\400 国内盤7inch) / 青い影  A Whiter Shade Of Pale / ライム・ストリート・ブルース Lime Street Blues 
Deram D-1012  
1967年 録音
1968年リリース

レコードの盤面の盤質は、良好です。
解説(北山幹雄)、歌詞が、付いています。

ジャケット、ライナーに コスレと ヨゴレが、あります。

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1967年5月にシングル・リリースされた彼らのデビュー曲。

プロコル・ハルム(Procol Harum [prokl hrm])は、イングランド出身のロックバンド。デビュー曲「青い影」(1967年)は世界的な大ヒットを記録し、バンドは一躍スターダムにのし上がった。クラシックブルースの要素を色濃く取り入れた独特の作風で人気を博した。




プロコル・ハルム* = Procol Harum  A Whiter Shade Of Pale = 青い影

レーベル:Deram  D-1012
フォーマット:
レコード, 7", 45 RPM, Single, Reissue, Mono
国:Japan
リリース済み:1968
ジャンル:Rock
スタイル:Psychedelic RockProg Rock


AA Whiter Shade Of Pale = 青い影
BLime Street Blues = ライム・ストリート・ブルース




Foldout paper cover and die-cut company sleeve.

A: Aoi Kage
B: Raimu Sutorto Bursu (Lime Street Blues)

 (List price): ¥ 400


結成まで
プロコル・ハルムの前身となったのは、英国エセックス州で1961年に結成されたR&Bバンド、パラマウンツであった。彼らは、ローリング・ストーンズミック・ジャガーから「最高のR&Bバンド」と称賛されたものの、ヒットを出すことはできず1966年に解散する。その頃、パラマウンツの中心メンバーであったゲイリー・ブルッカーは、プロデューサーガイ・スティーヴンスの紹介でキース・リードという詩人と出会い、楽曲を共同制作するようになった。その後、2人はオルガニストのマシュー・フィッシャーを仲間に迎え入れ、1967年にプロコル・ハルムが結成される。なお、バンド名は「Beyond these things」(こうしたものを越えて)を意味する不正確なラテン語[1]、プロデューサーの飼い猫の名をもじったものと言われている。

結成から解散までの歩み

シングル「青い影」で一躍有名になった彼らの初期のサウンドを特徴付けるのは、ゲイリーのピアノとマシューのオルガンからなるツイン・キーボードの編成である。このスタイルについては、ザ・バンドとの影響関係も指摘されている。また、R&B的要素とクラシック的要素を融合させた独特の音作りは、1970年代のプログレッシブ・ロックの先駆をなしたとも評される。特に、5部構成のロック組曲「In Held Twas in I」が収録されたセカンド・アルバム『月の光』(1968年)と、ポップな作風を指向したサード・アルバム『ソルティ・ドッグ』(1969年)は初期の佳作とされている。その後、1969年にマシューがバンドを脱退すると、ジミ・ヘンドリックスに深く傾倒していたギタリストのロビン・トロワーの存在感が圧倒的となり、彼の奏でるギター・リフを前面に押し出したハードな楽曲が増加してくる。
しかし、1971年にはロビンもまたバンドを脱退し、ゲイリーの志向するクラシカルな路線が復活することとなった。1972年にはカナダのエドモントン交響楽団との共演によるライブ・アルバムを発表するが、これはディープ・パープルロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラとの共演盤などと共に、当時ロックとクラシックの融合が盛んに試みられた事を例証する作品と言えよう。翌1973年の7作目のアルバム『グランド・ホテル』は、今日では1970年代プログレ・シーンを代表する作品の一つに数えられており、彼らの後期の傑作とされる。ホテルを退廃的な物質文明(西欧文明)の象徴と見なすコンセプチュアルな歌詞と、重厚華麗な演奏が特徴である。その後、ロックンロール草創期の代表的なソングライターだったジェリー・リーバーとマイク・ストーラーのコンビをプロデュースに迎え、時流に即してAOR的要素をとりいれた1975年の『プロコルズ・ナインス』である程度の商業的成功を収めるものの、「すべてをやりつくした」というゲイリーの判断で1977年には解散を迎えている。


再始動からゲイリー・ブルッカーの死去まで


バンド解散後、ゲイリーはソロ活動を展開していたが、1990年にドラマーのB.J.ウィルソン英語版)が肺炎で死去したことをきっかけに、哀悼の意味をこめて1991年にバンドを再結成し、アルバム『放蕩者達の絆』を発表した。ロビンは短期間で脱退するが、バンドはその後も北米や英国を中心に散発的にライブを行っており、2003年にはマシュー、キースらも参加した再結成後第2作のアルバム『ウェルズ・オン・ファイアー』をリリースしている。
彼らは、デビュー曲を別とすれば、総じて華やかなチャート・アクションとは縁の遠いバンドであった。しかし、プログレ的ではあるものの分類の難しい独特な作風はロック史上に一特色を呈するもので、結成から半世紀近くを経た21世紀になって、世界各国で再評価の機運が高まっている。
なお、彼らは1972年テン・イヤーズ・アフターとのジョイントコンサートで来日し、2003年には再来日して四人囃子との共演を実現させた。また2012年には松任谷由実とのジョイントライブを日本国内数箇所で行なう[2]
2017年4月には、クリームとの共同作業で知られるピート・ブラウンを作詞家に迎えた14年ぶりの新作『乙女は新たな夢に』のリリースに至った[3]
2022年2月、主宰ゲイリー・ブルッカーが病没[4]。これにより、活動に事実上の終止符が打たれた